【新潟】HSP交流サークル

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HSPな日々㉖~種の保存~

先日友人からこどもを作らない選択をしたと聞かされました。私自身同じ考えだったので「今はそれぞれの自由だよね」と相づちを打ったのですが、実はいろいろ考えた上での言葉でもありました。日常だと長くなるため説明することはないのですが、せっかくなのでここに残しておきたいと思います。最初に断っておくと、「こどもを作らない選択はまったく悪いことではない」という結論になるので、それを了解した上でお読みいただければと思います。今回は本当に個人の戯言なので。

そもそもこどもを作る、子孫を残すということは生き物に与えられた最も代表的な本能であり、生きる意味そのものと言えるかもしれません。しかし本当に人間は本能的な生き物なのか、そこが私は疑問なのです。人間は進化の過程で大脳を発達させ、理性的な機能を手に入れました。本能にとどまらない社会性を重視するためのルールやモラルは、時に人間の本能を抑制します。例えば強い子孫を残すために多数の異性と関係を持つ、体の弱いこどもを間引く、そんなことはこの社会で受け入れられないでしょう。そしてもしその理性がさらに進んだのなら、本能的行動の大前提である種の保存に反発するのも自然なことなのではないでしょうか。つまり強い理性は遺伝子に組み込まれた本能にも論理的な説明を求め、結果そこに価値を見出さなくなることも有り得るのではないか。そうして生まれたこどもを作らないということは、進化の過程で理性を強めてきた人間だからこそ持ちえた選択肢であり、進化の先にある必然だったのではないか、と思うのです。

しかしそれは当然人間という種を弱め、滅亡させる選択肢でもあります。しかしそこでさらに私が思うのは、それはダメなことなのか、ということなのです。

種の滅亡。確かに本能的には受け入れられないことでしょう。しかし理性的にはどうでしょうか。終わらない物語などあるでしょうか。永遠の命などあり得るのでしょうか。死は悪く避けるべきものなのでしょうか。そう、始まったものには必ず終わりがある。理性的にその事実を理解することができれば、いずれくる種の滅亡も受け入れる時が来る。それが理性による進化とそこから生まれた子孫を残さないという選択肢、少子化によるゆるやかな種の滅亡なのだと思うのです。

そして思うのは、私達がすべきことは闇雲に本能的に種の滅亡に抗うのではなく、いい形で終わりを迎えるための計画なのではないでしょうか。それは例えば、新たに生まれるであろう次の種に生きやすい環境を残す、自然保護的活動かもしれません。あるいは人間という種が確かに存在したということを証明する、記録なのかもしれません。もしかしたら芸術というものはそういう側面もあるのではないでしょうか。

断っておきますがこれは哲学などではまったくなく、あくまで個人的で陳腐な妄想です。
何が言いたいかと言えば、こどもを作らない選択は進化の上で自然なことだから恥じることでも卑下することでもないし、余裕のある中で構わないので人間が滅亡した後に新たに生まれる種のために残せるものを考えてはみてはどうだろう、という提案なのでした。

まあ余計なお世話だと思う人もいるでしょうし、本当にその通りだと思います。

こういう理屈っぽいとこがねー…、私はねー…。よくないよねー。