時々ふと、昔出会った人を思い出すことがある。恐らく何か紐付けされた記憶から連想しているのだろが、それがどこからなのかは定かではない。
大学生時代、東京の六畳一間の木造建てのアパートに住んでいた。そこは路地を入った行き止まのじめっとした場所にあって、部屋の隅が斜めに傾いていたり、昼はダンディだけど夜は借金取りに土下座しているおじさんがいたり、浄水器の詐欺師が来たりした。
そんなアパートの迎えに、1人の老婆が住んでいた。いわゆる人懐っこい『おばあちゃん』ではなく、痩せていてしわくちゃで腰が曲がって仏頂面で、いつも黙々と家の前をホウキで掃いている80代くらいの人だった。
根っからの田舎者の私はご近所さんには挨拶をしなければと思い、見かける度に行っていた。しかし向こうが返してくれていたのか不思議と記憶になく、きっと私は関わりたくなかったのだと思う。それでも会うたびに挨拶をした。そんな日々が二年続いた。
ある晴れた日。いつも通りホウキ掛けをしている老婆に挨拶をした。それは私にとってただのルーティーンのひとつでしかなかったが、その日の反応だけは覚えている。
「いつも挨拶してくれてありがとう」
涙声で返された。
あれから15年が経つ。あのおばあさんはまだ生きているのだろうか。どんな人生を送ってきたのだろうか。なぜあの日、返事をしたのだろうか。なぜ涙声だったのだろうか…。
そんな名も知らぬ他者に思いを馳せる時、私は自分が確かに生きてきたのだという実感を得る。
人の人生は、そういった多くの他者によって形作られているものなのかもしれない。
そしてこれを書いている今、文字が増えていくにつれておばあさんの記憶が薄れていくような感覚がある。
それでも確かに、おばあさんは、そこにいたのだ。