【新潟】HSP交流サークル

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HSPな日々㉘~幸せについて~

大学時代、私は幸せとはなにかということをよく考えていました。もちろん人それぞれ幸せの形は違うでしょうが、その最小公倍数とでも言うべき、最低限の定義や条件があるのではと思ったのです。

子細は忘れてしまいましたが、その時考えたのは「自分は生きていていいと思える自己肯定感」と「人の中で生きることに喜びを見出せること」でした。つまりこの二つがないと、どんな環境でも幸せは感じられないのではないかと思ったのです。
自己肯定感はまあそのままですが、なぜ人の中で生きることが入るのか。それはすでに人の中で生きているためだからです。

両親・家族はもちろん、衣食住すべてを一人で賄っている人はおそらくいないでしょう。服の生地を作る人がいて、野菜を流通させる人がいて、家を建てる人がいて。実は私たちはたくさんの人たちの力で生きているわけです。だからその事実を受け入れられないとそもそも生きていけない、と思ったのですね。

また東北大震災が起きた後、盛んに『絆』という言葉が叫ばれていたのを覚えているでしょうか。以前読んだ本によると、人の距離感にも流行り廃りがあるのだそうで。さしずめ個別化が進んだ現代においては、人の距離感は離れ気味かもしれません。例えば趣味などのコミュニティは好きだけれど近所づきあいはしたくない、というのはよくある話ではないでしょうか。あるいはそれらは、戦後復興で一致団結していた世代を見て育った次の世代が、自分たちは違う方がいいなと感じた結果なのかもしれません。

しかしそれでは乗り越えられない課題がある。それこそ大震災ともなれば、否応なく近所づきあいが重要となってきます。そうしたきっかけにより個別化だけではいけない、近い距離感つまり『絆』が必要ということになったのでしょうか。
そして距離感がまた近くなたっとき、その次の世代は再度遠い距離感を求めるのかもしれません。

ただそもそもこの『絆』。別の読み方があるのはご存じでしょうか。それは『ほだし』。意味は『拘束』です。
つまり絆といううのは一見暖かな心のつながりのようにも思えますが、その実お互いを縛る行為でもあるわけなのです。

人と人をつなぐその綱を、『鎖』と思うか『赤い糸』と思うかはその人次第なのかもしれません。どうせつながるならいいものに考えたい。そう考えられるのであれば生きていることそれ自体を幸せに感じられるのではないか、と思ったわけなのでした。

また最初の方でたくさんの人の力で生きていると書きましたが、逆に言えば自分自身もすでに誰かの力になっているのかもしれません。それに気づいた時、自己肯定感も高まるのかもしれないですね。

みなさまは今幸せでしょうか。そもそもあなたにとっての幸せとはなんでしょうか。それを振り返るのに、このお盆というのはいい機会なのかもしれません。